تسجيل الدخول文化祭準備が本格的に動き始めると、学校という場所は思っていた以上に“声”を要求してくる。
それを、久瀬湊人は火曜日の朝から嫌というほど実感していた。「久瀬くん、これ先生に見せる前に一回確認してくれる?」「久瀬、備品表って昨日のやつで確定?」「久瀬くん、掲示位置このままで見やすいかな」「久瀬ー、脚立どこ置くか決めた?」 朝のホームルーム前だというのに、机の周りへ声が集まってくる。 別にクラスの中心人物になったわけではない。 むしろ本人としては、今でも端の方で静かにしていたい。 けれど文化祭準備というのは、不思議なくらい“適任そうな人”を逃がさない。 目立ちたがりではない。 でも、放っておくと場が散る時に手を出す。 困っている人にすぐ気づく。 人に頼まれると断りきれない。 そして、やるとなったら無駄に丁寧。柊坂真白は、限界が近い人間の“まだ平気です”が嫌いだ。 嫌い、というより、見ていて腹が立つ。 本当に平気な人は、そんな言い方をわざわざしない。 平気ではない人ほど、周りを困らせないためにその言葉を使う。 しかも、その“困らせたくない”がだいたい空回りして、結局まわりの方が余計に神経を使うことになる。 だから真白にとって、「まだ大丈夫です」は、ほとんど危険信号みたいなものだった。 そして最近の久瀬湊人は、その危険信号を出す直前の顔をよくする。 家側の問題で張っていた時とも違う。 配信側の大型企画で時間を削られている今の疲れ方は、もっと見えにくい。 ちゃんと学校へ来る。 授業も受ける。 会話にも入る。 でも、その全部を維持するために、本来ならどこかで使うはずの余白を先に削っている感じがある。 それが、真白にはどうにも嫌だった。 秘密の中身はまだ分からない。 分からないし、今すぐ全部言えとも思っていない。 でも、“もう少しで無理の線を越える”ことだけは見える。 そこまで見えてしまった以上、放っておく気にはなれなかった。 ◇ 月曜の朝、教室へ入ると、久瀬はすでに来ていた。 最近はそれだけで少しだけ安心する。 でも今日の真白は、安心より先に確認が来た。「おはよう」「おはようございます」 返事はいつも通り。 声も整っている。 だが、整いすぎている時ほど危ないと、もう最近は分かっている。「今日」「はい」「寝てないでしょ」 かなり直球だった。 前の席で日野が吹き出し、すばるが「朝一
鳴海すばるは、推しの“良さ”が世間へ見つかる瞬間が好きだ。 いや、好きというより、どうしようもなく弱い。 自分だけが知っているわけではない。 最初から人気だし、天瀬アルトが王子様枠として強いことくらい、ファンなら誰でも知っている。 でも、それでも時々あるのだ。 普段から見ている人間には当たり前すぎるやさしさとか、 距離感の上手さとか、 変に前へ出ずに空気を整えるところとか、 そういう“アルトの本質みたいな部分”が、ふとした一場面で広く見つかってしまう瞬間が。 そういう時のオタクは弱い。 かなり弱い。 そして今、すばるはまさにその状態だった。「……無理なんだけど」 昼休み、自分の机に突っ伏しかけながら小さく呟く。 スマホの画面には、昨夜のAstraLink大型企画関連で流れてきた短いレポまとめや切り抜き未満の感想投稿が並んでいた。 正式な配信ではない。 打ち合わせの内容がそのまま出回ったわけでもない。 でも、新人参加者の一人が軽く触れた「先輩がフォローしてくれて助かった」みたいな感想や、関係者側のふわっとした匂わせで、ファンの間に“またアルトが後輩へ自然に優しかったらしい”空気が広がり始めている。 それだけで、もうだめだった。 絶対そういうことする。 天瀬アルトは、そういうことをする。 しかもわざとらしくなく。 恩着せがましくなく。 後輩が自分で立てるように、一段だけ空気を下げるやつ。「はー……ほんと好き……」 小さく言ってから、すぐ顔を上げる。 学校だ。 今は教室だ。 いくら心の中がオタク全開でも、今ここで机に突っ伏して昇天するわけには
天瀬アルトとしてログインする直前、久瀬湊人は珍しく五秒ほど何も押せずにいた。 パソコンの画面には、AstraLink大型企画の事前打ち合わせ用ルーム。 参加者一覧。 接続テストの案内。 進行スタッフのメッセージ。 そして、参加ライバーの名前。 その中に、今日いちばん意識せざるを得ない名前がある。 小鳥遊絃葉 同事務所所属。 登録者数二十万前後の新人。 まだ現場で直接会ったことはない。 だが、学校ではすでに二度ほど短く話している。 そこが問題だった。 もし完全に知らない後輩なら、まだ楽だ。 天瀬アルトとして、普段通り落ち着いて接すればいい。 でも今の相手は違う。 学校での“久瀬湊人”を、すでに少しだけ認識している相手だ。 学校では静かな男子。 配信側では王子様系の先輩ライバー。 その二つを同じ相手へ同時に隠し通しながら接しなければならない。 「……ほんとに、勘弁してくれ」 小さく呟いて、湊人はようやく接続ボタンを押した。 画面の中で、事務所のロゴが一瞬表示される。 ヘッドセット越しに、接続音。 スタッフの事務的な声。 他ライバーたちの軽い挨拶。 ここから先は、もう天瀬アルトだ。 久瀬湊人の迷いも、学校帰りの地味な空気も、一度脇へ置くしかない。 「お疲れさまです、天瀬です」 声を出した瞬間、自分でも少しだけほっとする。 やはり、入ってしまえば切り替わる。 それが長年積み上げた癖でもあり、ある意味では武器でもある。 問題は、このあとだ。 ◇ 打ち合わせルームには、すでに何人か先輩ライバーが入っていた。 中堅組の軽い雑談。 スタッフの進行確認。 マイクチェック。 回線テスト。
御門朱莉は、秘密そのものより、秘密が増えた時の疲れ方に興味があった。 人は一つのことを隠している時と、二つ以上を同時に隠している時とで、明らかに呼吸が変わる。 一つだけなら、まだ軸がある。 どこに気を張ればいいのか、 何を守ればいいのか、 本人の中でも線引きが比較的はっきりしている。 でも、秘密が複数になると違う。 気を張る方向が増える。 それぞれの線が微妙に重なって、本人の中でも優先順位が揺れ始める。 結果として、“一見落ち着いているのに、目の奥だけが忙しい人”が出来上がる。 そして最近の久瀬湊人は、まさにそれだった。 家側の問題で削られていた時期の彼は、もっと分かりやすかった。 張っていて、 少し尖っていて、 何か一つの大きなものへ耐えている顔をしていた。 今は違う。 家側の件は、前より少しだけ整理された。 それでも疲れている。 しかも、前と違う種類の疲れで。 時間に削られている顔。 スケジュールに押されている顔。 そのくせ、学校では地味な転校生の顔を崩さないようにしている。 そこまで来ると、朱莉の中では答えはかなり出ていた。「……一つじゃないのよね」 昼休み、渡り廊下の窓から中庭を見下ろしながら、小さく呟く。 家柄か、政治か、財界か、そのあたりに近い何か。 それが一つ。 そしてたぶん、もう一つ別の“外の顔”がある。 しかも、そのもう一つは家側とは違って、もっと日々の時間に食い込む種類のものだ。 久瀬湊人が抱えている秘密は、一つではない。 少なくとも朱莉には、もうそこだけはほとんど確信に近かった。 ◇ 金曜の
倉科紬希は、知らないことが増えるほど、逆に見る場所が絞られていくタイプだった。 普通はたぶん逆なのだと思う。 事情が見えない時ほど、理由を知りたくなる。 何があったのか、 誰が関わっているのか、 どうしてそんな顔をしているのか。 そういう“中身”へ目が向くのが自然だ。 でも、紬希は少し違った。 知らないことが増えると、その分だけ今見えているものへ意識が寄る。 顔色。 目の下の薄い影。 返事の半拍。 笑ったあとの息の吐き方。 そういう、説明より先に表へ出てしまう部分。 久瀬湊人のことになると、最近は特にそうだった。 家側の問題が近づいていた時は、張っている感じがあった。 気を抜くと何かが崩れそうで、でも崩さないように自分で自分を支えている、あの少し危うい感じ。 今は違う。 配信側の大型企画という、新しい事情が近づいてからは、もっと“時間に削られる人”の顔をするようになった。 緊張で固くなるのではない。 予定に追われて、休む場所が薄くなって、でも学校ではいつも通りに見せようとしている人の顔。 それを見てしまうと、紬希はもう“何があるのか”より先に、“今日しんどいのかどうか”だけを気にするようになっていた。 その変化は、自分でも少しだけ不思議だった。 でも、嫌ではなかった。 ◇ 金曜の朝、教室へ入った時点で、紬希にはもう分かっていた。 久瀬は今日も、少しだけ疲れている。 ひどくはない。 限界というほどでもない。 でも、きちんと見ていれば分かる程度には、昨日までの疲れが残っている。 おそらく、夜にも何かしら企画関連のやりとりがあったのだろう。
大型企画が本当に厄介なのは、内容そのものより、時間の食い方だと久瀬湊人は思う。 目立つ収録があるとか、 誰かと会うとか、 そういう派手な部分はまだいい。 問題はその前後にある。 事前確認。 移動。 機材テスト。 打ち合わせ。 待機。 押した時間の調整。 終わったあとに必ず発生する追加の確認。 そういう、表には出ない細かい時間が、学校生活の隙間へじわじわ入り込んでくるのだ。 しかも、今度のAstraLink大型リアル企画は、それがかなり露骨だった。 平日夕方の拘束。 休日の半日以上の確保。 現地入り時刻の厳守。 個別動線の確認。 参加ライバーごとの準備差分。 企画書の見た目は綺麗だ。 派手で、夢があって、ファンには楽しい。 でも実務として読むと、学校へ通っている人間にはかなり厳しい。「……これ、どうやって普通に通うんだよ」 金曜の夜、自室でスケジュール表を見下ろしながら、湊人は小さく呟いた。 家側の問題が一段整理されたと思った直後だ。 ようやく学校生活への干渉を減らす方向へ舵が切られた。 窓際の空気も、少しずつ静けさを取り戻し始めた。 そこへ来て、今度は配信側が現実へ食い込んでくる。 理不尽だと思う。 でも理不尽さを嘆いても、スケジュールは減らない。 スマホのカレンダーを開く。 学校の予定。 小テスト。 提出日。 クラスの小さな行事。 そして、AstraLink側の事前収録候補日。 重なる。 微妙に。 だが、その“微妙”が一番厄介だ。 丸一日休むわけではない。 でも、平日の放







